EDXG ブリテン

アマチュア無線こと始め

   

JA5IGX  大野 茂

 私のアマチュア無線との出会いは、高校生のころでありました。当時私は、私立の高校の土木科に、松山市清水町の叔母の家の間借りをして通学していました。そのお隣にJARLの事務局におられたJA5FG片岡さんが時々見えられ、「君もハムをやらんかね。」と誘われました。高校にも文化祭のときにハムの、デモンストレーションなどがありましたが、当時はそれほど興味も示しませんでした。その後、高校を優秀な成績で卒業後、大阪にある土木建設会社に就職し、1年半ばかり勤めて故郷が恋しくなり、昭和46年に帰郷しました。

 その後、叔父の建設会社に就職をしました。この建設会社は、前述の叔母さんの会社であります。おりしも当時は、モービルハムの草々の時代であり、かっこ良さにもひかれ、またFGさんの熱心な勧めむあり、3月頃の電話級養成課程の講習会で始めて、アマチュア無線技士の仲間入りをしました。

 開局は、その年の12月に当時電気屋さんに勤められていました、JA5YZ丹生谷さんに指導を受け、IC20とFT400Sで開局しました。私の実家は、松山ゴルフ倶楽部の横の谷をずっと入った山の中で、ロケも悪く町内のYZさんやAXS佐々木さん等のOMさんが石鎚反射で、144Mhzで4エリアとQSOしているのを羨ましく聞いておりました。町内にも、何人かハムの方がおいでてGYU近藤さんらと一時「伊予かわうそクラブ」に席を置いていたこともありました。また、当時GYU局を会して友達になったPYA近藤さん、GLY小糸さん、H5BXB佐伯さん等ドクターハムは、いまでも良いお付き合いをさせていただいております。

 その後、色気づいて結婚し、しばらくハムから遠のいていましたが、TS820が世に出た頃に、再び寝ていた虫が目を覚ましました。住所を仕事に精励するため県営牛渕団地から、川内町南方の借家に変えましたが、1戸建てに150坪の敷地が災いしハムに精進することとなり、51年1月に電信級、51年11月に第2級、61年4月に第1級と免許を取り、ハムの合間に仕事をするような生活が続くことになって行きました。なかでも、2級、1級は、大変苦労をし1級にいたっては、三年かかったと思います。ろくに勉強せずに受けに行っていましたから。PHC武田さんの知り合いの人に「また、あの人来てる。」といわれるくらい受けまくりました。生来、勉強は嫌いなものですから無線工学であずり、欧文、和文の受信では近くの人の鉛筆を走らせる音が気になりと、今思い出しても散々でした。また、この頃からDXにも興味を持ち、ぼつぼっと、QSOを楽しんでおりました。

 ある日、144.76をたまたま聴いた時からDXの熱はいっぺんしました。PYA局の友人である大OMJA5KT藤崎さんらが、この周波数でDXINFORの交換をしていました。これを機会に、DXに傾倒してゆきました。特に、この時期に、RH森さん、AQC花崎さん、AUC三ツ田さん等に巡り合えて現在の私があります。亡くなられた森さんには、大変お世話になり森さんのスケジュールに合わせて、松山出張を組み、アンテナ工事の手伝い、ゲタ箱作りに精出したのを懐かしく思います。昼飯をご馳走になったり、甘いものが好きだったのでひぎり焼きをお届けしたりしましたが、とにかくお世話になりっぱなしでした。早く彼岸に渡られたのが本当に残念でなりません。お元気でおられたら、松山各局は3CX3000のパラを安く組んでもらい、今でも向かうところ敵なしですが、今にもまして高名をはせDXQSOに邁進していると思うと、まったくもって惜しい人を亡くしかえすがえす残念でなりません。

 私のQSOは、火がつくまでは引っ込み思案で、珍エンティティー、バンドニューを逃してばかりで、今でもこれは直っていません。残りは北朝鮮だけですが、僕に電話をしなかった悪い友人のために泣くにも泣けない思いをしております。今年10月で49歳ですからまだボチボチで良いのかもしれませんが、しかし、やりたかったなあ。ROHさん、この次はたのみまっせ。

 最近は、パケットクラスターの接続が上手く行かず、7・21で国内QSOをしたり、国内コンテストでCWの練習をしたりしております。CWをJAQ山尾さんの様に打てたり、聞けたりしたらもっと楽しいのにと思ってばかりです。和文もやりたいし、RTTYもやりたいし、やりたい事ばかりですが、何一つものになっていません。これも、ずぼらな性格に起因することですからこのままかもしれません。自己満足の世界が、逆にストレスのもとづくりになってしまっています。なかなか、遊びと割り切れないで困っています。さあ、明日からは、CWの国内QSOにがんばるぞ。

 時節柄、各局、御自愛の程を。

 JA5ROHさん来月よろしく。

注:「また、あの人来ている」と言ったのは、私(PHC)の先輩で、いつも和文で失敗していたJR6JZF:糸原氏です。
彼は、1アマを取り、コンテストをバリバリやっていましたが、残念ながら、JRCに就職後、交通事故で他界しました。酒、無線、タバコ・・・が好きでいつもお世話になっておりました。(PHC記)

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