EDXG ブリテン

ラジオ少年

   

99年8月 JA3BSL 近澤捷治

1)目覚め
  私がハムの存在を知ったのは昭和32年、中学2年の時で、同級生に刺激されゲルマニュウムラジオを作ったことに始まります。折しも鉱石ラジオがゲルマニュウムラジオに変ろうとするる時代で、JA1CNE杉本哲氏がトランジスターラジオやゲルマニュウムラジオの解説と制作について書かれた本(残念ながら本の名前は忘れました)を買ってきました。その本を見て、日本橋のラジオ街に部品を買いに行き、ラジオを組立ました。組み立てたといっても、μ同調コイルに100pのコンデンサをバラにつけ、ゲルマニュウム検波器とクリスタルイヤフォンをバラックで組んだもので、これに10m程のエナメル線をつければNHKを始めとして民間放送がよく聞こえてきました。この本の中に100pのコンデンサをパラからシリーズに変えると短波が聞こえると書かれており、やってみましたが、いっこうに聞こえません。しかしある夜、ジャパンとかアメリカとか変なことをしゃべっている声がきこえました。これがハムだったのです。それから後はお定まりの「初歩のラジオ」の愛読者になっていました。

2)免許の取得
 中学3年になりましたがラジオ熱は冷めません。学校まで片道1時間の電車通学で、同じ様なラジオ少年が一緒なので熱は上がる一方でした。0V1や5球スーパーを組んでBCL、SWLをしていましたが、ハムの免許が簡単には取れるとは思っていませんでした。しかし雑誌で電話級・電信級が新しく創られ、翌3月期に第一回の試験が行われることを知り、これは絶対に受験しなければと決めました。
 幸いにも、行っていた学校は中学からエスカレーターに近い状態で高校に進学できる環境だったので、受験勉強はそっちのけで友達とラジオの話ばかりしていました。その結果、担任の先生に「今頃ラジオの組立に熱中しているアホがいる。やめとけ」と皆の前で注意されたこともありました。一度付いた火は消えません。「初歩のラジオ」に予想問題とその回答が掲載され、早速勉強が始まります。当時は電話級の試験も記述式で、当然書きながら問題と回答を覚えました。今の初級の試験よりも格段に勉強も大変で、試験内容も難しかったと思います。
 さて、無事、高校進学も決まり、3月末か4月の始めに同級生1名と電話級を受験、5月の始めに合格通知を受け取り、ハムヘの道がひらけました。本当はここで詳しい日時を書くつもりで、土・日に大阪に帰った時、資料を用意したのですが、きれいに忘れて東京に来てしまいました。ただ合格通知が来たのは昭和34年5月7日だったのは確かです。
 この時代、一番印象に残っていることは0V1を作った時のことです。この記事を読んでいる皆さんは当然知っておられますが、0V1の検波段では再生をかけることにより、同調回路のQを上げ、感度・選択度をよくします。ただし再生の調整が微妙で、スムーズな再生をかけようとすると大変でした。べ−ク製のプラグインボビンに巻いた同調コイルのタップの位置を少し変えれば状態が変わり、何日もかけてベストと思われるまで調整をしました。その結果、実にスムーズに再生がかかり結構感度もよかったと思います。3.5や7メガの国内は実用になりました。今のトランシーバと聞き比べると、格段に耳が悪いのは当然ですが、現物がもしあれば一度聞き比べをしてみたいなと思います。

3)局免の取得
 無事、従事者免許も取得し、局免許の申請もしました。当然この時期はリグの作製に夢中になる時期です。ファイナルがST管の42で、プレートに250Vをかけ40mAを流す10W入力でした。本当は300Vかけたかったのですが、プレートが赤くなり、10Wが精一杯でした。42はさすがST管で3.5や7でも自己発振を起こし、グリッド電流のピークとプレート電流のデイップが合いません。さっそくナショナルのピストンコンデンサを取り付け中和を取ると見事に一致します。この当たりを知識として知っていまLたが、実際に経験できたのはST管を使った効用かなと、今になって考えます。          I
 3エリアではJA3AZ○から電話級のハムにもコールサインの割り当てが始まり順調に進んでいましたが、JARLの保証認定が始まり、JA3BO○のあたりで免許の交付が一時中断しました。聞くところの情報によると、申請書を電監からJARLに出し直した方が早く免許されるとのことで、電監から差し戻しをうけ、JARLに出し直しました。結果としてはこれが正解で、同時に申請していた同級生は電監に出したままにしていたのですが、彼よりは早く免許受領はできました。ただJARL認定のコールサインはBSAから始まった様で、後から免許がきた友達はJA3BPOでちょっと悔しい思いをしたものでした。この免許発行の中断は結構長くて、約半年に及びました。リグは出来ている、免許は来ない、さてどうしましょう。おきまりのUCの開始です。当時私は豊中に住んでおり、ローカルの無線局にはよく遊びに行っていました。その中でも特に親しくしていただいたJA3BC○さんのコールを借りてオン・エアしたのが始めで、途中からは私の方がアクティブになってしまいました。ローカル局も鷹揚なもので、事情を知っているものですから「風邪を引いた人・・‥声が本人と違うのでこう呼ばれていた」が又出てきたと言いながら遊んでくれました。この人は大阪電通高校へ行っておられ、同級生にハムが多かったせいもあり、ただ一度だけ「UCだろう、本物ならば免許番号を言へ」と空の上で迫られ、ノイズのせいにしてQSO(これがQSOと言えればの話ですが)を一方的に打ち切ったこともありました。QSOと言えば、今の人はQSOすればカードの交換と思われるでしょうが、当時は「予備免許中なのでカードは本免の後のQSOでよろしく」と言えばカード交換も無く、BC○さんに迷惑をかけることはありませんでした。
 そんなこんなをしている内に、年も変わり昭和35年4月に免許状が届き、待望のコールJA3BSLがおりました。私と同級生がハムの免許を取ろうとしているのを見てさらに7人が第2回の試験を受け、少し遅れてコールも取りました。こうなるとラグチュウに花が咲くのは当然で、毎日の様に3・5で遊んでいました。
 こうしてラジオ少年は「歌を忘れたカナリア」では無く、勉強を忘れたハム少年になってしまいました。結果として確かに学力は上がらなかったと思います、高校2年生が毎日、勉強時間よりも遥かに長時間、無線をしていたのですから。しかし、こうして素晴らしい趣味を今も続けることが出来るのも、ラジオ少年、ハム少年があったからでしょう。この文章を読んで下さっている皆さんも多分、同じ様な経過をたどってハムの道へ迷い込んだのではないでしょうか。

4)現在
 その後大学、社会人と進み、さらに「こぶつき」になり、北は青森、南は沖縄と勤務地も変わり、高松に昭和60年に移りました。幸い支店勤務となり時間も出来ましたのでHFを含めた局を開局しました。ここでJCC・JCGをやっておけばよかったのに、どうしたことかDXに取り付かれてしまいました。ローカルにJE5FLM柏さんが居て、熱心にDXをやっていましたので、彼の影響をうけたのは確かです。さらにJH8GWW二宮さんが居られ、種々の御指導を項きました。FLM局と競争し、GWW局の教育を受け、何時の間にやらDXCCが100から200と増えると現状の設備に不満がでるのは世の常です。アパマンハムにもかかわらずアパートの屋上を占拠し14,21の4エレを回すまでになってしまいました。
 この頃、高松の電化センターで知り合ったのがMYさん、CBOさん、KDYさん、XPGさん達でこの人達に誘われEDXGに入会、こうして文章を書く羽目になってしまいました。
 平成8年に大阪の家を整備したのを機会に家族を帰し、高松チョンガーになりました。その後、平成10年4月から東京勤務になり、この4年間は月2回程度の運用しか出来ません。しかしAUCさんのOH、T8あるいはXPGさんのHSと運良く巡り会っており、続けてさえいれば皆さんとお会いできるのが分かり、大阪に帰ってHFを聞くのが楽しみになりました。かつてのラジオ少年もおじさんになりました。今後はDXCC全カントリー(この言い方は古いのかな)ゲット、そして受験用に覚えた和文CWを活用した脳の活性化を目標としてラジオを続けていきたいと思っています。皆さんも素晴らしい趣味を縦続されるようにお願いいたします。
                    GL FB DX  73  from CHIKA

次、JA5XAEさん、KH6奮闘記等よろしく。 ED

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